広島市の学校ではカープの授業があるらしい!
都市伝説ではない。
本当に、広島市の小学校では、広島カープを学ぶ授業があるのだ。
そのことは全国放送のテレビ番組でも紹介された。
広島市の全市立小中学204校の小学6年と中学1年を対象に、
カープを取り上げる授業が行われている。
年間35時間も、その授業にあてられているという。
これはびっくり!!
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■子どもたちの興味のあることから入る教育
この取り組みは、資料を読み解く思考力や文章を書く表現力を養うことが目的だ。
そのテーマの1つとして選ばれたのが、「カープについて考える授業」。
2015年4月から、最初は広島市内の小学校142校で行われた。
その内容は、新聞資料の比較、順位と観客数の推移、
ユニフォームやキャッチフレーズの変遷、ライバルチームの情報など、
多種多彩で、中身が「コイ」。
子どもたちにプロ野球・広島東洋カープの歴史や人気の理由を考えてもらい、
思考力や表現力を養おうと広島市教委が独自の内容を盛り込んだ教材を使う。
市教委は、
「優勝して市民が盛り上がるのは当たり前。
弱くてもチームが愛された理由を考えさせるのが狙い」と説明する。
子どもたちが興味を持ちやすい身近な題材を授業に使うことで、
資料を読み取る力を高めながら地元への愛着も育むという教育方針だ。
子どもの学習意欲も高く、教員らは「考える力を身につけるきっかけになる」と期待する。
■市民に愛された広島カープ
広島東洋カープは、特定の親会社を持たない市民球団である。
日本に存在する12球団中、唯一の市民球団だ。
ただ、自動車メーカーのマツダが球団の3分の1の株式を保有する筆頭株主である。
球団名の「東洋」は、マツダの旧社名が「東洋工業」だったからだ。
球団オーナーは、歴代の松田家から出ているので、
純粋な市民球団ではないかもしれないが、
特定の企業に全面依存せずに経営を成立させているという意味では市民球団だといえる。
カープの創設は1949年6月。
そのとき、球団のネーミングについて、いくつか候補があった。
「ブラックベア」「レインボー」「ピジョン」「カープ」だ。
広島城は「鯉城」という別名を持っていること、太田川は鯉の名産地であること、
鯉は出世魚、鯉のぼりは躍進の姿、竜門の滝を鯉が登り切って龍になるという伝説もある。
それで、「カープ」と決まった。
ちなみに、カープは「CARP」とつづり、複数形になってもSはつかない。
なのに、創業時のチラシに「CARPS」としてしまったという逸話もある。
公式戦の初試合は、1950年3月10日、福岡の平和台野球場。
対戦相手は西日本パイレーツ。
惜しくも5対6で負けている。
球団初勝利は、3月14日の国鉄戦。16対1だった。
この年に優勝したのは松竹ロビンス。カープは最下位だった。
その後、カープは万年最下位が続く。
とにかく、弱いチームだったのだ。
■開幕わずか3か月で経営危機になる!
当時、入場料収益は、開催地に関係なく、
勝ったチームが7割、敗れたチームが3割だった。
負けてばかりのカープには入場料収益はわずかしかなかった。
広島県内から株式の出資を公募するが、予定額の半分しか集まらなかった。
1950年の開幕、わずか3か月で、カープの経営危機説が流れるようになった。
実際、5月には、選手に支払う給料の遅配が発生した。
2軍選手に給料が支払われたのは4月のみだった。
ユニフォームやグローブなどの野球道具を納入した運動具店に代金が支払えず、
その店は倒産した。
セリーグ連盟の加盟金300万円は、その後、3年間、支払えなかった。
球団は、親会社を持とうとしてサントリーに持ちかけたが、条件が合わなかった。
専売公社やアサヒビールなどに相談するが、いずれもうまくいかなかった。
球団の経営はますます悪化し、遠征へ行くための旅費さえなかった。
白石助監督は「旅費がないなら、歩いていこうじゃないか」と意気盛んだったものの、
セリーグ連盟からは「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた。
そして、当時、下関にチームがあった大洋との合併が決まった。
その日の夜、ラジオニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じられた。
役員会に参加した石本監督が必死の説得を試みて、なんとか合併方針は撤回された。
石本監督は3月16日の中国新聞でファンたちに訴えた。
「いまこのカープをつぶせば、
日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう。
私も大いに頑張る。
県民もこのさい、大いに協力してカープを育ててほしい」
資金集めの後援会を立ち上げ参加を呼びかけた。
石本監督の呼びかけに応じて「おらがチームを潰すな」と入会者が殺到した。
石本監督は、シーズン中の采配を白石助監督にまかせて、自分は後援会集めに奔走した。
野球がやりたくて広島にやってきたのに、石本監督はお金の工面に必死に走ったのだ。
中国新聞で、資金調達の必要性を訴えた。
広島県内の公民館や学校を回って後援会への入会をお願いした。
辻説法(街頭演説)も行った。
選手たちも、試合が終わったあと、各地の町内に出向いて講演会を行った。
話下手な長谷川投手などは、歌をうたったという。
カープグッズ第1号ともいえる「カープ鉛筆」もこのとき誕生した。
そして、有名な樽募金が登場する。
広島市民球場や県庁などに樽が設置され、子どもたちはなけなしのお小遣いを、
大人たちは酒代やたばこ代を削って、この募金に参加した。
ファンたちの発案ではじまった募金は、多い日で1日に10万円もの大金が集まった。
当時の1試合の入場料収益が20万円だったから、ものすごい金額といえる。
この樽募金は1960年代まで続いた。
この樽募金も合わせて、1951年末までに集まった支援金は約440万円。
この年、カープは130万円の黒字を計上し、日本中を驚かせた。
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■1975年に大きな転機が訪れた!
1975年に球団初の外国人監督が就任する。
ジョー・ルーツ監督だ。
ルーツ監督は選手や関係者らの意識改革を目指してユニフォームを刷新した。
それまでカープのユニフォームは黒っぽい地味なものだった。
帽子にはHの文字だった。
それをCに変えた。
そして、「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンのもと、
燃える闘志をあらわす意味を込めて、赤を基調とするユニフォームに変えた。
ルーツ監督は熱血漢だった。
練習! 練習! 猛練習の檄が飛ぶ。
選手たちも、しだいに変わっていった。
試合になるとルーツ監督の熱い声が球場内に鳴り響いた。
審判に対しても、疑問があったら猛抗議する。
そして開幕早々の4月27日、阪神戦で投球判定をめぐって、
ルーツ監督は審判に喰ってかかる!
そして、試合のボイコットという大騒動になる。
ルーツ監督は4月30日に監督を辞任してアメリカへ帰っていく。
その後、5月3日に監督に就任したのが古葉竹識だった。
この年に首位打者になった山本浩二と連続試合出場の衣笠祥雄、
最多勝利投手の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍で「赤ヘル旋風」を巻き起こした。
そして、これまで万年最下位だった弱小チームの広島東洋カープが、
球団創設以来はじめてリーグ優勝を決めた。
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悲願の日本一を達成したのは、それから4年後の1979年だった。
日本シリーズの対戦相手は近鉄バファローズ。
3勝3敗で迎えた日本シリーズ第7戦、これで決着がつく最後の試合だ。
7回表を終了した時点で、4対3とカープが1点リードしていた。
そこで古葉監督は、万全を期すため、もっとも信頼できるリリーフエースの、
江夏豊を7回裏からマウンドへ送る。
ところが、9回の裏、この回を無失点で抑えればカープが優勝というところで、
近鉄の猛攻撃が開始される。
そして、ノーアウト満塁という大ピンチに見舞われる。
江夏は次のバッターを空振りの3振に取り、1アウトとなる。
次のバッターがスクイズの構えをしたのを江夏は見逃さなかった。
江夏は冷静にスクイズを外し、飛び出した3塁走者を仕留めて2アウト。
最後のバッターには、3球3振に打ち取り、試合終了。
広島カープは日本一となった。
いわゆる「江夏の21球」として球史に残る試合となった。
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■まとめ
広島カープの歴史を学ぶことは、
広島市民だけでなく、日本人全体に必要なことかもしれない。
日本人が忘れかけていたものを、広島カープは教えてくれる。
原爆に見舞われて焼け野原になった広島に、
勇気と希望の光となって広島県人を支えたカープ。
経営危機となっても、決して、決して、
あきらめなかったカープの監督と選手とファンたち。
潤沢な資金を持つ巨大球団に負けないで、
万年最下位から、見事に優勝した広島東洋カープ。
「意志あるところに道はできる」
ということを教えてくれた奇蹟の球団である。
こんな球団が日本にあることを、日本人として誇りに思う!
ちなみに、ローソンの看板は青色だが、
広島のマツダスタジアム付近のローソンは赤色になっている!
もちろん、マツダスタジアムのチケットがローソンで購入できる!